1
勇者ヒンメルの死から5年後。
中央諸国カペッレ地方。俗に音楽都市と称される小都市は、王都から西に向かって程近くに位置する。
宮廷音楽の礎を築いた高名な音楽家の多くはその土地で学び、それぞれが今に続く楽団を作った。日夜、オーケストラやオペラ公演によって劇場は賑わい続けていて、その興行はいまや中央諸国でも馴染み深いものとなっている。
教会から漏れ聞こえる賛美歌からも文化と宗教の友好的な結びつきを感じさせた。静謐さと力強さを併せ持つ歌声と演奏が耳に心地よい。
こういうところには思いもよらない魔法があるんだ、とフリーレンは軽やかな足取りで街を歩いていた。
魔王討伐の旅では訪れなかった場所だったが、せっかくなら最初のうちに寄り道しておけばよかったと思う。王都から東へ向かった旅路の始まりを、少し残念に思い返したりする。
それほどまでに、この街は美しく隔絶された場所だった。
石畳は流麗な楽譜を、放射状に広がった家々は統率された楽団を思わせた。
人に聞かせるための音楽があるように、この街全体が人を迎え入れているような、そんな雰囲気があった。
音楽にまつわる魔法も豊富にあるかもしれない。音楽に特別詳しいわけでもないが、独自の文化に根付いた民間魔法はそれだけでも収集する意義があるのだ。
楽譜や楽器を象った看板を目印に、フリーレンは散策を続ける。
オペラ座があり、それに隣接する博物館があり、絶えずどこかからは音の律動があった。
街の至るところから音が重なる。だが、不思議と不協和音になることはなかった。
ふと、その中でも一層たどたどしい音が耳に留まった。氷の上を慎重に踏み歩くような音色だった。
どうやら、街の中央に位置する教会の前を小さなマーチングバンドが往来しているようだ。少年少女たちは身の丈に合わぬほど大きな金管楽器と手に余る打楽器を携えて、来たる日に備えた練習をしていた。
羽根付きの赤い軍帽を被った――というよりは被せられた――少年は、誰よりも必死の形相で、赤面する顔を気にすることなく、ホルンを吹いていた。
まだ年端もいかぬうちから、この街では音楽とともに生きているのだ。
人間が吹くには世界一難しいとも称されるホルンを大事そうに抱えながら奏でるその音は、決して澄んでいるとは言えなかった。
だが、いずれそれは勇ましくも、優しくも響くだろう。
それは、この街に相応しい音色だとフリーレンは感じていた。
小さな楽団に背を押されるようにして、フリーレンは歩を進める。
葉擦れの音、噴水の音、カフェテリアでの団欒の音。そこかしこに溢れる自然音や生活音すべてが心地よく調律されたような印象を受けた。
しらみつぶしに街を探索していっても、ここには何年でも滞在できそうだ。
街の一角には古びた楽器屋がある。その年季が入った佇まいはよく目立った。
何とはなしに、店に入ってみる。普段は立ち寄らないような場所だが、足は不思議と吸い寄せられる。
軋む扉の先は打って変わって、しんとした空気が漂っていた。
美しく磨かれた管楽器、埃ひとつない弦楽器。それらが張り巡らせた毛細血管のように、所狭しと置かれている。一人で切り盛りしている老職人の息づかいが聞こえてくるような店構えだった。
狭い足場を探りさぐり奥へ向かっていくと、
「お前さん」
と声がした。年輪をじっくりと重ねた熟成された声だと、フリーレンは感じた。
見ると、白髪を無骨に後ろで結んだ老人が店の奥から顔を覗かせる。さっきまで、楽器の手入れをしていたのか、腕まくりしたままの姿だ。年齢の割に隆々とした筋肉が垣間見えた。
「お前さんは、楽器とは縁遠い人生を歩んできたようだ」
モノクルを目に押し当て、まじまじとフリーレンを見つめる。
「……どうしてわかるの?」
「見ない顔だからだ。音楽を愛した者も、音楽に愛された者も、早晩一度はここを訪れる」
老人は自らの言葉を心から信じ切った様子で断言する。
「音楽を愛した者はすぐに楽器に取り憑かれる。音楽に愛された者は儂の眼が見まがうことはない。だからわかるのだ。お前さんの顔を見せてくれないか」
そして、もっと近くにきてくれ、と手招きをした。
「いやはや、驚いた。お前さんは、どうやら後者らしい」
「どういうこと?」
「その耳、そのまなじり、その姿、エルフと見受ける」
「……そうだけど」
フリーレンは話の流れがすぐには飲み込めなかった。
「お前さんのような人に持っていてほしいものがある」
待たれよ、と一言いうと踵を返し、店の奥から何やら小さな木箱を取り出してくる。そこから掌サイズのオカリナのような楽器が顕わになる。
複雑な意匠が凝らされているのは素人目にも明らかだった。
「メークリヒだ」
「メークリヒ?」
「二つ名は『不可能』。習得に百年かかる楽器だ」
「人間にとって最も難しい楽器はホルンだと聞いたことがあったけど」
フリーレンは先ほど見たマーチングバンドの少年を思い出しながら言った。ずいぶんと苦戦していたのを覚えている。
「それは普通の人間にとっての話にすぎない。この楽器はもともとエルフが作ったものだ。お前さんは知らぬようだが」
「そうなんだ。知らなかった。でも、そんな奴がいてもおかしくはないね」
フリーレンは、暇つぶしに長い歳月を費やす同族を知っている。
「それを我が曾祖父が譲り受け、構造を解析した。どうやら微弱な魔力を絶妙な均衡を保ちながら注ぎ続けなければ音を出すことすら叶わないようだ。この楽器はまともに音を出せるようになるのに、十年以上を要する。一曲を奏でられるようになるには老練な魔法使いだとしても五十年では足りないくらいだ」
「へえ」
フリーレンは興味の有無がわからないような曖昧な返事をする。
「だが、百年の研鑽を積んだ末に奏でられるその音は比類無きものなのだと聞いたことがある」
実際、老店主も人生を懸けて習得に挑んだという。だが、魔力を持たぬ彼には到底なし得るものではなかった。音を出すことすら叶わないのだ。
「熟達した者はおろか、吹ける者すら未だ現れてはいないが、こうして買い手を求め、売りに出しているのだ」
値札を見やると、目を見張る値段が記されている。家だって買えてしまうような額であるから、フリーレンの手持ちの路銀では手が届くはずがない。
もとより、フリーレンが買おうとは思っていなかった。たしかに、同じエルフが長い人生の一端を楽器という形にしたこと自体には興味を惹かれる。どんなエルフだったのだろう。どうして、それを人間に渡したのだろう、と。きっと、悪戯の域を超えないのだろうとも同時に感じる。人間の短く儚い一生では、聞くことが出来ない音を奏でる楽器なのだから。
「儂はいつかメークリヒの調べを聞きたくて、ここにいた。言葉では喩えられないというその音色をずっと求めてきた。途方もない年月、ずっとだ。音楽を愛した者や音楽に愛された者の誰かが成し遂げる日を心待ちにしていた。もうそれも叶わぬ夢ではあるが、こうしてエルフのお前さんに出会えたのは、女神様のお導きのように感じているのだ」
「わるいけど……」
フリーレンが断ろうとすると、それを遮るようにして、
「代金はいらん」
「それは無理だよ」
「お前さんのようなエルフに持っていてほしいのだ」
老店主はいつになく強い語気で言った。
その目には、叶わぬ夢を誰かに押しつけようとするような傲慢さはなく、混じりけのない希望が宿っていた。
「……」
逡巡ののち、フリーレンは答える。
「買い手がいなかったら考えるよ。こういうのは、本当に手にするべき人が買うべきだからね」
「……そうか。また来てくれ。きっとだぞ」
「また顔を出すよ。ここにはしばらく滞在する予定だから」
老店主は念を押すように、去り際のフリーレンに声を掛ける。
「お前さん、名前は?」
「フリーレン」
「良い名前だ。音楽に愛された名前だ」
2
楽器屋をあとにすると、夕暮れが街に影を落としていた。
昼と夜の狭間でこの街の曲調が変わるのをフリーレンは肌で感じていた。
賑わいを見せる昼間とも、音のない真夜中とも違い、夜を想う心地よさが風のように頬を撫でた。
食事にしよう、とフリーレンは思った。
ヒンメルたちと旅をしていたときは、いつもヒンメルが店を決めていた。フリーレンたちが食べたい気分のものを言わずとも、それがある店を探し当てる能力に優れていた。
なんでわかるの? と食事の席で一度聞いたこともあった。
「君たちは考えていることがすぐ顔に出るからね」
そう言うと、ヒンメルは微笑む。
「たしかにハイターの顔はドブ色だ」
アイゼンは隣の飲んだくれを一瞥する。
「なんですと?」
ハイターはアンデッドのような顔でフリーレンを見つめる。アイゼンとフリーレンの区別がつかないほど泥酔しているらしい。
「酒くさ」
フリーレンが一蹴すると、ヒンメルは笑った。
「フリーレン、僕はね、こうして四人で食事をするのが何より楽しいんだ。好きな食べ物を選ぶのも、せっかくならみんなが楽しい時間になるようにしたいからだよ」
それが答えになっているのか、当時も疑問に思った記憶がある。
そのときも、似たような風情の店だったと、目の前のレストランを見て思う。
パルランテという名のその店は、初めて入るとは思えない落ち着いた場所だった。
「ヒンメルは何が好きだったかな」
思い返してみると、ヒンメルはいつも自分の料理を最後に頼んでいた。フリーレンたちとは違う料理であったり、四人で分けて食べやすい料理を選ぶことも多かった。
そして、自分が食べている料理を少しずつ取り分けては「一度にいろんな料理が食べられる方が楽しいだろう?」と言っていた。
思い出せるだけでもいろんな場所で食卓を囲んだ。海がある街では海産品を、野営地では山菜や狩猟肉を食べたし、その土地土地の名産品を特に好んだ。
「そこでしか食べられないものは、一緒に行った人たちとの共通の記憶になるんだ。忘れていたって、そこにいけば、その土地の物を食べれば蘇る。そんなふうに旅をしていたいと思ってね」
いつか、そんな話をしていたことを思い出し、フリーレンはウェイターを呼ぶ。
「この店でしか食べられないものはある?」
そんなふうなことを考えるようになったと知ればヒンメルは驚くだろうか。それとも、それすらも折り込み済みだと言わんばかりに、「顔に書いてある」と笑うだろうか。
ウェイターはメニュー表を恭しくめくる。
「十個の鶏卵で作ったルフオムレツが名物でございます。四人前相当なので、四分の一にしてお持ちしましょうか」
「いや、そのまま頼むよ。食べきれなければ持って帰るから」
著名な音楽家も愛したというその料理は、想像以上に大きく、テーブルを支配するかのように見えた。
いつかの賑やかな食卓を思い返しながら、一人の夜は更けていく。
3
滞在して一ヶ月が経ったが、魔導具店や町並みに足を取られて、小さな街の全容を把握するには至っていなかった。
楽器屋を通る度に店主は熱心にフリーレンの名を呼んだ。
そこで二三、挨拶の言葉を交わすのが日課となってきていた。
フリーレンとしては別段困ったことはなかったが、ただ、何となく今日は少し違う場所へ足を延ばしてみる気分になった。
街の中心部に程近い場所で、音楽家の記念像が並んでいる通りがあった。著名な人もいれば、フリーレンがその名を知らぬ者もいた。
その並びの最後に場違いな銅像があるのを見つけた。
バイオリンを持ったヒンメルの胸像だった。おそらく、魔王討伐後、一人で近隣諸国を旅していた時にでも作られたのだろう。
「……ここにも来てたんだ」
思わずフリーレンは呟く。
顎当てに乗せた表情は目をつぶっているが、強い意思を感じさせる。良い仕事をする職人の手によるものだろう。またずいぶんと時間をかけたのが伺い知れる。百種類以上あるという勇者像の中でも異色の仕上がりだ。
「そんな楽器も弾けたのか」
誰に聞かせるでもなく言ったひとりごとだったが、背後から思わぬ返事があった。
「ヒンメル様の言った通りですね」
振り返ると、声の主は老女だった。声の印象が若いせいか、見た目との印象にかなりギャップがある。よく通る声で彼女は続けた。
「フリーレン様ですね?」
「……?」
フリーレンは自分に向けられた言葉を数瞬、理解しかねた。
「どういうこと?」
「以前、ヒンメル様がこちらに来られた際に仰ったのです」
老女は曲芸さながら声色を巧みに使い分けて、ヒンメルと当時の彼女の様子を再現する。
『いつか、ここをフリーレンという魔法使いが訪れる。その時に目印となるような像を作りたいんだ』
『目印ですか。ヒンメル様の前では皆が立ち止まってしまうのではないですか?』
『そうだろうね。でも、僕を見つめている彼女は一目でわかるはずだから』
『そういうものですか』
『そうとも』
老女は咳払いをひとつして、小芝居を終えた。存外に声真似がうまいせいか、奇妙な感覚だった。聞くと、かつては曲馬団で花形を務めたという。道理で芯の通った声だ。
「申し遅れました。私、フレーテと申します。フリーレン様に出会えて、一人盛り上がってしまいました。お恥ずかしい」
声色を変えて演技していた時とは打って変わって、頬を染める。
「いいものが見れたよ」
「それならよかったです」
フレーテは花が咲くように笑う。
「銅像も作る意味があったみたいだね」
「ヒンメル様はまだまだ魅力が伝わりきっていないと嘆かれていましたが」
「ヒンメルならそう言うだろうね」
フリーレンは銅像の爽やかに流れる髪の毛についた錆を持っていた布きれで拭う。
「『銅像の錆を綺麗に取る魔法』とかがあれば楽なんだけどな」
「私も手伝います」
「大丈夫だよ。勝手にやってるだけだから。それで、ヒンメルはなぜそんなことを言ったの?」
一通りの錆が取れ、本来の笑みが戻ったところで尋ねると、老女は神妙な面持ちで答えた。
「フリーレン様にお頼みしたいことがあるのです」
あまりに申し訳なさそうに言うので、フリーレンは少しだけ悩ましい面持ちになった。
「……報酬はなにかある?」
「『音を本に記録する魔法』の魔導書です」
途端、フリーレンは破顔する。
「よし乗った」
4
「術者が死ぬまで解除されない魔法を解除したい?」
フリーレンは老女の言葉を繰り返す形で聞き返した。
「それは難しいよ。不可能に近い」
「『でもフリーレンならきっと成し遂げるだろうね』とヒンメル様は仰っておりました」
「無茶を言う」
「そして、恥ずかしながらその術者というのが私なのです」
「話が読めないな。どういうこと?」
「順を追って話さなければなりませんね」
老女はそう言うと、生い立ちから話し始めた。生まれはカぺッレ地方ではなく、魔法使いの家系で、戦火を嫌った両親が魔法を使った曲馬団を始めた頃からこのあたりに移り住んだのだという。もともと魔法曲馬団に入りたいわけではなかった彼女だが、教育も受けてきたこともあって、当時はいろんな魔法が使えたのだという。
そのうちのひとつが『死ぬまで一つの記憶を消す魔法』だった。他人に濫用すれば恐ろしいものだが、この魔法は自分にしか掛けることができないという制限付きの魔法である。
その効用には真偽が分からぬ噂が絶えない。ある人は、死ぬ瞬間に走馬灯のように思い出すのだという説を唱え、またある人は、永遠の闇に葬られることを意味するのだと言った。
とにかく謎深い魔法だった。
幼いながらその魔法を習得した十五歳のある日、彼女はそれを自分に掛けた。
それ以来、記憶の欠片を一つ失ったまま、今に至る。
「つまり、私が自分にかけた忘却魔法を解除したいのです」
「どんな記憶を消したの?」
「それがわからないのです。消してしまったので」
伏し目がちに彼女は言葉をつなげる。
「……でも、何か大事なことを出来心で無くしてしまったんじゃないかと、老いさらばえ、死が身近になるにつれて思うようになったのです。無くしてはいけない記憶をその場の激情と身につけた魔法に任せて葬り去ったのであれば、せめて、死ぬまえに思い出したくなったのです。ごめんなさい、自分勝手なお願いだと思うでしょう?」
老女はようやく年相応な声で語った。
「ヒンメル様がこの街にいらしたとき、何かの折でそんな話をしたのです。そしたら、フリーレン様のことを話してくれたんです。フリーレン様ならきっとどうにかしてくれるはずだと」
フリーレンを見澄まして、老女は訴える。
「どうか、私のお願いを叶えてはいただけないでしょうか。私に残された瞬きのように僅かな時間を悔いなく過ごしたいのです」
滔々と話す老女を横目に、フリーレンはそれには答えず、何か思案している様子だった。
街を歩き、時は経ち、夜になり、宿を借りた。
陽気な音楽が聞こえていた酒屋からも音が失われた深夜、魔導書をめくるフリーレンにある日の出来事が去来した。
5
「君にとってはこの旅も、瞬きのように僅かな時間だったんだろうね」とヒンメルは言った。
それは市場で野菜を手に取るように自然で、なにげない一言だった。
「何度も死にかけたというのに、ここまで来てしまえばすべてが懐かしい気持ちになる」
魔王討伐を終え、王都を戻る馬車に揺られながらヒンメルは続ける。
「フリーレン。今は懐かしいとは思っていないんだろうけれど、いつかこの旅を、僕たちを、今この瞬間を思い出す日がくるよ。それがいつになるかはわからない。僕が死んだ後かもしれない。それでも、『くだらない旅をしていたっけ』ときっと笑えるはずだ」
「しみじみするのはまだはやい! 家に帰るまでが魔王討伐ですよ」
ハイターは笑みを絶やさずに茶化す。
「まだ、依頼だってあるんですから」
王都への帰路でも、ヒンメルは多くの依頼を受けた。小さな人助けや、道路の整備、探しものだって引き受けた。
今度の依頼人は村の葬儀屋で、依頼内容は、人間の死体にのみ反応する魔物を倒す、というものだった。
詳しく聞くと、村と街を繋ぐ道にある橋を通ろうとすると、竜がその邪魔をするのだという。死体を運ばないといけないときにのみ、竜害が発生するため、その竜は死体を狙う性質があるのだと結論づけた。
案山子には反応しないし、死んだふりも通じなかった。本物の人間の死体にしか見向きもしないことから、その竜は人間の生死を感知する目を持っているのではないかというのがフリーレンの推測だった。
「僕が囮になろう」
ヒンメルはいつものように毅然とした口ぶりだった。
「せっかく魔王を倒したのに、ここで死ぬ気か」とアイゼン。「無茶はよせ」
「喰われても死なないアイゼンも今回ばかりは役に立ちませんね」
「うるさいぞハイター」
軽口を叩く二人を尻目にフリーレンは尋ねる。
「死体を借りてきたらだめなの?」
「それはできないよ、フリーレン」
諭すようにヒンメルは続ける。
「亡骸は人生を全うした最後の姿なんだ。無闇に危険にさらすことはできない。それに、囮になるとはいえ、本当に死ぬわけじゃない。フリーレン、僕を仮死状態にしてくれないか」
「仮死状態?」
かつて凶暴な巨大魚に『生き物を氷締めにする魔法』を使ったことがある。ヒンメルはその時のことを覚えていて言ったのだろう。
「いいの? 加減を間違うと死ぬよ」
「君ならできるだろう?」
「どうかな」
フリーレンは肩をすくめるが、
「一思いにやっちゃいなさい。あなたはできる子です」
「いけいけ」
ハイターとアイゼンは楽しげに囃し立てた。
「どうなっても知らないよ」
橋の上に立ったヒンメルに、フリーレンは杖を構える。
「フリーレン。撃て」
杖の先に集中した魔力が一閃、ヒンメルを包み込む。空気が凍てつく中、ヒンメルは静かに倒れ込んだ。
程なくして、橋の上に大きな影が映った。竜が現れたのだ。上空で一度旋回すると、狙いを定めたように、ヒンメルに一直線で向かってくる。射貫くような眼光、開いた爪は鋭く尖り、迫り来る。
それに相対するように、戦士アイゼンの斧の一振りが炸裂した。
重く、鈍い音があたりにこだまする。
白煙と冷気が混じり合い、それが溶けるようにたなびいた。最後に立っていたのはアイゼンの方だった。
フリーレンは冷たくなったヒンメルの体に『人肌に温める魔法』を使う。
息を吹き返したヒンメルは赤らんだ顔でフリーレンに笑いかける。
「ほら、君ならできただろう?」
6
フリーレンは魔導書を閉じた。
「死ぬまで、一つの記憶を消す魔法か」
翌日、朝日が昇るとともに徐々に街に音が満ちていった。
ベッドから遠く離れた固い床で目を覚ましたフリーレンは、半分ねこけたまま髪を梳かすと、老女の家へと向かう。
ある仮説を実践するためだった。荒療治にはなるだろう。だが、フリーレンの見立てでは成功する筈だった。
「フリーレン様。おはようございます。何かわかりましたか?」
老女はどこか清々しい声だった。
「死ぬほかないよ」
「え?」
「だから、仮死状態になるほかないんだ」
「……」
一瞬の狼狽があって、それから沈黙があった。だが、しばらくして意を決したようだった。
「お願いします。どんなことでも致します」
その言葉を聞いて、フリーレンは優しく杖を構えた。
「ベッドに寝転んでいて。いくよ」
「どんなことでも致しますが、本当に大丈夫でしょうか……」
「一度成功しているからね。私ならできるよ」
「フリーレン様がそう仰るのであれば大丈夫ですね。お願いします」
フリーレンが唱えた魔法が老女を包み、老女は一瞬体を硬直させた。
だが、すぐに絵の具が水に溶けていくように体の柔らかさを取り戻していった。その表情はこれまでよりずっとあどけなく、かつて少女だった面影を感じさせた。
「どう?」とフリーレンは短く聞く。「一度死んだから、記憶は戻ったはずだけど」
「ふふふ……私、子供みたいに悩んでたんだ……」
老女は失われた記憶を取り戻したようだった。
魔法曲馬団に入りたくないと思っていた思春の頃。彼女はある楽器に憧れていたのだという。
「習得に百年かかる楽器『メークリヒ』……」
それが欲しくて、でも高価だし、百年を費やすこともできないし、いっそその存在を忘れてしまえれば、とそんなふうに子供ながらに思ったのだ。
だから記憶に封をした。届かぬ憧れに蓋をして、現実を生き始めたのだ。
「思い出せてよかった……人生を懸けても届かない年月だけれど、今からでも、習い始めようと思います」
「そっか。じゃあ、あの楽器はあなたが持っているべきだね」
魔力を込めて音を出す楽器だから、もとより魔法を使える彼女とも相性はよいに違いない。
「楽器屋には言っておくよ。ずっと欲しがっていた先客がいたって」
「そんな。よろしいのですか」
「私より音楽を愛している人に持っていてほしいからね」
「ありがとうございます。フリーレン様には、お礼をしてもし尽くせません」
「ちゃんと報酬はもらうから」
「そうでしたね」そう言うと、老女は本棚から魔導書を取り出す。「『音を本に記録する魔法』です。恥ずかしながら、その本にはすでに色々な音が記録されておりまして……」
そう言うと初めて会ったときと同じように目を伏せた。
「変な趣味だと思いますでしょう? 曲馬団の興行でいろんな場所を巡ることが日常で、一期一会の出会いばかりだったので、何か形に残しておきたかったのです。その土地土地の人や自然音が私のよりどころだったんです。だから中には、ヒンメル様とお会いしたときの音声もございます」
「変な趣味なんかじゃないよ。ヒンメルも同じようなことを言っていた」
魔導書は読み終わったら返すよ、と言ってフリーレンは部屋を出た。
その日はまた、すっかり馴染みとなったレストラン・パルランテに行き、オムレツを頼んだ。満腹になった寝入り際、老女から貰い受けた魔導書を開いた。
彼女が言っていた通り、聞こえてきたのは年代も場所も性別もばらばらで、自然の音もあれば生活音もあった。
【お前さん、よく見る顔だ】
まだ若い頃の楽器屋の店主だろうか。
【鶏卵十個のルフオムレツを頼むよ】
高名な音楽家の声がそのまま続く。
【今度、この街にマーチングバンドを作ろうと思ってね】
【いつか、ここをフリーレンという魔法使いが訪れる。その時に目印となるような像を作りたいんだ】
ページをめくっていると、ヒンメルの声もする。最後に会ったときとは声色は違っていて、思い出の中にいたヒンメルの声がした。それは懐かしくもあった。
そして、やっぱりフレーテの声真似は少しだけ誇張されていたのがわかる。
【はやくポーズを決めてくれないと! バイオリンを持つだけなんですから……】
ヒンメル像を作る職人の悲痛な叫びだ。
かつて少女だったフレーテが興味の赴くままに、その場限りの出会いを大切にしていろんな場所で音を記録したのだろう。その姿が目に浮かんだ。
「…………」
皆との旅路を辿るのも悪くないな、と王都の東を見据えて思う。あと十五年くらいしたらそんな旅をしてもいいかもしれない。
結局、三ヶ月ほどの逗留で旅立つことにした。
楽器屋の店主に別れを告げた時、「フレーテは音楽を愛し、音楽に愛されている」と興奮気味に語っていた。普通なら十年かかる音出しを、あの老女は異例の速さで身につけてきているのだという。
やはり、持つべき人が持つのが相応しい。
そんなことを思いながら身支度をしていると、宿の前をマーチングバンドが通りかかった。
ホルンの少年は、短いうちに背丈も伸びて、帽子も様になっていた。ホルンを持つ手指にはタコができていて、前よりも息が苦しくはなさそうだった。
勇ましくも優しい響きが粒だって聞こえてくる。
街を出るフリーレンの背に祝砲のようなファンファーレが鳴り響く。
完